なんじ自身を癒せ エドワード・バッチ著(バッチホリスティック研究会刊)
第3章
バッチ博士がとても健康に恵まれていて、身体に無自覚でいられるほど頑強だったら、絶対にバッチフラワーというものは生まれてこなかったはずです。
今の世の中、自分の感情に蓋をして、見て見ぬふりをすることなど、ごく当たり前ですから、病気とストレスとの関係は、すでに広く認められていることです。だから「身体は正直」なんて言葉は、今更なにを、という感じですが、身体の不調が窓口になって、よからぬ生活習慣や、心に溜まった澱のような感情に気づかされることは、珍しいことではありません。人からも自分からも、見えない心はごまかせても、物質的な身体は痛みや不調となって現れるからごまかせないというわけです。
だから、身体に出るまで不調に気付かないでいてもいい、それまで待つ、必要は全くないのです。『なんじ自身を癒せ』の後に出版された『12ヒーラーズとその他のレメディ』には、「心の状態こそが身体よりも明確に病気の兆候とその進行を物語る」と述べられています。つまり、正直な身体の影には、不正直な心や思いが隠されていて、バッチの言葉を借りるまでもなく、身体に現れてくる前に、自分で自分の心を観る練習を積んでいけば、病気は予防できる、ということになります。そしてたとえ病気を得たとしても、自分と正直に向き合い、バッチが言うところの「欠点」を洗い流していけば、やがて痛みは軽減され、病は快癒に向かうということになるのですが...
でも悲しいかな、そうはいかないのが人間です。
第3章では、バッチ博士は病気の根源にある欠点が、まさしく病気と呼ぶものだと定義づけていますが、バッチフラワーのシステムが完成するまでの道のりの途中、バッチ博士がここを通ったということが、私にはとても興味深く思えるのです。
それはきっと、バッチ自身が、自分の欠点と向き合っていたに違いない。
と確信するからです。
幼い頃から繊細で病弱だった少年バッチは、大人になってからも、時々、自然の中に逃げ出さないではおれないくらい、感応しやすい傾向を持っていたようです。30代前半には死線を彷徨う大病にも罹っていますし、50歳で亡くなったのも、彼が決して健康的なタイプではなかったことを物語っています。となると、バッチフラワーのシステムを完成に導いたのは、まぎれもなく彼の病弱さであり、彼は彼自身の身体の不調の観察を通して、自分の欠点と向き合い、結びつけていったことにあるのではないか、と思うのです。
魂と身体の不調和の結果として、病気という症状があるのだから、結果だけに対処するのではなく、その根本になっている不調和からくる誤った行動を見なくてはならないと記していますが、読んでいてガツンとくるのは、行動、つまり行為と言っているところです。
バッチ博士は、この著書のあちこちで、魂の声に耳を傾けるとか、魂の目的を生きる、というようなことを述べていますが、どんなに崇高な思いや、心に愛があっても、具体的な行為として、それを実行してなければ、調和がとれていないということなのです。
バッチが言うように、傲慢さ、残酷さ、憎しみ、自己愛、無知、不安定な心、強欲、こういった欠点が、人間の本当の病気だったとしたら、悲しいけど、病気って、絶対、なくならないよな、とも思います。なぜなら、それが人間というものし、だからこそ、その人らしいというか、魅力的だともいえるのですから。
そして、バッチはこう続けます。
「私たちのなかで、心や体を病んでいる人は、まさにその病気によって、そういう理想的な状態に向かって導かれつつあるのです・・・苦しみは、私たちが誤った道を進んでいるときにそれを指摘し、輝かしい完成への進化を早めてくれるという点で、それ自体が恵みだからです。」
もし私が今、重い病を患っていたら、これって人から言われたくない。言われたら、絶対、素直に聞けない。あなたはいいわよ、健康なんだもの。高みからきれいごとが言える、って思ってしまう。そう、だから、これは病んでいる人が自分で自分に言うセリフのはずです。バッチ流にいえば、バッチさんが、自分の魂は、居心地の良い身体という器の中に安らいでいて、それでこんなセリフを吐いたとしたなら、それこそ傲慢の極みでしょう、って思うわけです。
バッチの植物探究の旅を辿っていくと、バッチにはきっと心だけではなく、身体にも、痛みや痒み、焦燥感や苦痛があったのだろうと思います。でなければバッチの言葉が、これほど心の奥深くまで響くはずがないですから。
「傲慢」は心の思い上がりと硬直で、体がこわばって硬直するような病気への引き金になる。そして痛みは「残酷さ」の結果。「強欲」で他人に対する支配欲の強い人は、病気によって欲望や野心にくつわがはめられ、奴隷のように自分の身体に仕えねばならない病気になる、などなど。こういうことを、実際その病の渦中にある人、あるいは家族が聞いたら、さぞや腹が立つことでしょう。そしてそれはすべて因果の法則・・・カルマによるものだとしています。
カルマの法則は、物質レベルのようには、原因と結果が分かりやすくは結びついてはいませんが、バッチ博士のカルマとは何だったでしょう。20世紀初頭に生きたこと、産業革命の中心地であったイギリス・バーミンガム郊外に生まれたこと、第1子であったこと、男性であったこと、繊細で優しく、そして身体が弱かったこと、とても頭がよく、そのため人と歩調を合わせるのが難しかったこと、などなど現実として現れているものの向こうに、才能と障害として認めることができます。
第3章の最後はこう結ばれています。
しかしそうはいっても、がっかりすることはありません。病気の予防と治癒は、私たち自身の内部の誤りを見つけ出せば、そしてそれを破壊する美徳を熱心に発達させてその欠点を根絶やしにすれば、可能なのです。それは誤りと戦うことによってではなく、私たちの誤りを洗い流してくれるような、誤りと反対の美徳を洪水のように流し込むことで可能になります。
でたー!!!という感じです。
アロパシーでも、ホメオパシーでもなく、これこそがバッチフラワーの真髄。
ポジティブですべてを満たす・・・だから結局、バッチはそれまでの医療を背後におき、自然界の美しい植物からレメディを作る旅に出なければならなかったのでしょう。
言葉足らずでごめんなさい。
もっと的確な言葉が出てこなくてもどかしい。