6/17(日)は、BFRP東海の特別講座、アニマルプラクティショナーの佐藤真奈美先生をお招きして、愛犬に寄り添うくらし~について、たっぷりお話を伺いました。
人間と犬という異種間であっても、家族として暮しを共にするには、どんな努力が必要なのでしょう。動物行動学的アプローチとはまた別の理解の仕方とは、いったいどんなことでしょう。
バッチフラワーを使うとき、対話に基いてレメディを選ぶのは、プラクティショナーなら誰でも知っている基本中のキですが、佐藤先生のアプローチは、人と人との間で交わされる対話と同様、人と動物のあいだにも、対話が成立するという地平に立っています。つまりペットも、様々な要因から、不安や怒り、不安定さ等々に陥るとき、そこには必ず意味があり、それが人間にとって問題行動と映ったとしても、まずしっかりとその声を聞き、そして受けとめ、説明すると言ったプロセスを重要視するということです。これはペットに限らず、子育てにも通じる、コミュニケーションの極意なのではないでしょうか。
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それにしても、私が小さかった頃(1950年代)と比べると、現代のペット事情は隔世の感があります。当時、犬猫は買うものではなく、貰うとか拾うというのが主流でした。どこの家でも犬たちは、あまり快適ではないところに一日繋がれて、冷ご飯に残り物の味噌汁をぶっかけ、みたいな食事をもらっていたと思います。野良犬も普通にいました。敗戦後、社会は落ち着いたとはいえ、それでも、多くの人々にとって、食べるものに事欠いた記憶は、さほど遠いものではなかったはずです。犬猫はペットというより、番犬、ネズミ捕り、みたいな感じで、家畜に近かったのかもしれません。
いつ頃から犬猫はペットになったのでしょう。
確実に言えるのは、以前はもっと短命だった犬や猫が
ペットになってからは長生きになったことです。
私は小さい頃、特に犬が好きでした。どこの犬でもすぐに触ろうとして、咬まれたことも二度三度。それでも動物に対する恐怖心に繋がっていないのは、ちょっと面白いと思います。なぜかなあ。そんなことをつらつら考えているうちに、自分のペット履歴を辿ってみようと思い立ちました。
第1七年期 幼児期
物心ついたときには、猫がいたような...。名前も種類も何も覚えていません。気配のみ。
第2七年期前半 犬 雌 雑種 ユリ 外飼い
はっきりと覚えているのは、名古屋の親戚から紀州犬の雑種をもらってきたこと。冬の初め、子犬は父のコートのポケットにすっぽりと納まって、電車に乗って伊勢までやってきました。私は父にくっついて座り、横からポケットに手を突っ込んでは、子犬の感触を楽しみました。どんなに心が弾んだことでしょう。誰が名付けたか、「ユリ」という名前でした。
お産もしました。部屋を暗くして段ボールに布を敷いて、、、子犬たちはどうしたのでしょう?全く記憶がありません。知らない間に親がよそへやってしまったのでしょうか。やがてユリはアカラスという皮膚病になりました。赤くなった皮膚を母が洗っては、薬を塗っていたのを覚えています。いつ死んでしまったか、その時私はどうしていたか、全然覚えていません。
第2七年期後半 後半 犬 雌 雑種 ジュリ 外飼い
そのあとにやってきたのは、これまた雑種の「ジュリ」でした。ユリも白い犬でしたが、ジュリも白い中型件でした。可愛かったけどやんちゃでよく逃げ出すので、泣きながら探しに走り回りました。ユリに比べると、ジュリはかなりのアンポンタンでした。
ある冬の朝のことです。近所のチカちゃんと学校へ向かって歩いていると、いつの間にか逃げ出してきたジュリが、私のあとをついてくるではありませんか。学校までは1時間ほどかかる距離、もうすぐ学校につくというところでしたから、連れて戻ることもできません。「ジュリ、家へお帰り」そういって背を向けて歩き出すと、後ろでなにやら物音がしました。振り返ると、ジュリが「肥溜め」に落ちていました。今ならありえないのですが、当時の農村の風景としては、ごく当たり前に、畑のあちこちに、小さなお風呂ぐらいの「肥溜め」が蓋もされずにあったのです。寒い時期のことですから、表面は固く凍っていたのでしょう。どうやらジュリはその強烈な臭いを発するものに引き寄せられ、上を歩いたようで、中ほどの柔らかいところに来て、ズブズブと嵌り込んでしまったのです。助けるのは、私しかいません。大急ぎで大きな木切れを拾って差し出すと、うまくしがみついて、何とか助け上げることができました。
ああっ、プルプルしちゃダメ~~と叫んでも、無駄です。
うううぅぅぅぅ・・・くさ~~い!!(涙)
必死にすがりつこうとするジュリを振り切って逃げる私
校庭中を駆け回り、挙句の果てに校長室に逃げ込んだ私は、ジュリに負けず劣らず大バカ者でした。
あとはご想像にお任せします。
第3七年期 十代後半の頃になると、我が家から動物の気配が消えていました。今、思えば、両親は私たち子どものために犬を飼ってくれていたのかもしれません。姉は大学で家を離れ、私は思春期真っ只中、自分のことだけで、精一杯でした。
第4七年期 鳥 コキボウシ(インコ)雄
外国航路に乗っていた叔父の家で、キボウシという大型のインコを見て、どうしても欲しくなり、次の航路で通るときにと、おねだりをしました。半年くらい経って、キボウシよりちょっと小型、体長25センチくらいのコキボウシが届きました。
全身が鮮やかな緑色の羽で覆われ、肩と頭の上がちょっと黄色くて、おしゃべりが大得意でした。名前は「ワイワイ」と名付けました。私が家にいると、ケージから出たがり、「ワ~イ、ワイ」と呼びかけます。電話のベルが鳴れば、いち早く、モシモシとご挨拶。結構長文もしゃべりました。私の肩の上が定位置で、くちばしで布を挟みながらよじ登ります。左肩から右肩へ行ったり来たり、私はジャングルジムか、という感じでした。おかげで私のTシャツはいつも穴だらけ、膝の上でひっくり返り、お腹を撫でてもらうのも好きでしたから、とてもよくなついていたのだと思います。
私が結婚して家を出た後、たまに実家に帰っても、もう以前のように、甘えたりしなくなっていきました。私は裏切り者だったのかもしれません。
画像はコンパニオンバード.コムのサイトで見つけて勝手にお借りしてきました。
https://コンパニオンバード.com/ この子、ワイワイにそっくりで、びっくりしました。
第5七年期 犬 ポインター 雄 外飼い
子どもたちが3歳と1歳になった時、私たち家族はそれまでのマンション暮らしから、大地の上に引っ越しました。引っ越しの翌朝、玄関まで段ボールの山に埋もれているところに、やってきたのがイングリッシュポインターの雄「ビンゴ」でした。血統書付きの犬を飼ったのは、後にも先にもこの一度きりです。正直、このタイミングは最悪でした。ちょっと待って、と言ったのですが、こちらの都合は全く無視されてしまいました。ごめんね、ビンゴ、と今も悔いが残ります。
家の中はてんやわんや、子どもたちは小さくて、散歩に同行もできません。あっという間に1か月が過ぎ、2か月が過ぎ、社会性やしつけをする大事な時を逃しました。あるとき、林を夢中で駆けまわっている彼の姿を見て、その美しさにほれぼれしつつ、いたく反省。折よく警察犬のトレーナーの方と知り合い、それからは十分運動はさせてもらえるようになりました。ずっと後になって、ドラマ、ダウントンアビーの狩猟のシーンでは、何匹ものポインターが馬と一緒に野原を駆けまわる姿が出てきます。それを見るにつけ、そう、こんなふうに飼ってほしかったよね~と今も胸が痛みます。
第6七年期 犬 雑種 雌 外飼い 猫 亀 鳥
息子が小学校1年生になった時、同級生の親御さんから、犬を拾ったけどもらってくれないか、という話が飛び込んできました。すでに持て余し気味のビンゴがいましたから、無理無理、と断りたかったのですが、子どもたち3人の必死キラキラ瞳に負けて引き受けたのが、私にとっての最後の犬、「ミミ」です。名付け親は長女。冒頭の画像の茶色の雑種です。
それからしばらくすると、掃き出し窓の外に、毎日猫がやってくるようになりました。どこかの飼猫らしく、おびえた様子も威嚇するようなこともありません。ある日ドアを開けて話しかけると、スッと家に入ってきました。抱き上げて聞きました。「あなた、どこの子?名前はなあに?」、ふいにゴジャという声が聞こえてきたので、その子は「ゴジャラ」という名前になり、ゴジャラは毎日、息子のベッドで眠るようになりました。
また、近くの牧野が池公園では、甲羅がまだぷよぷよの亀を見つけ、うちの亀にしたり、ご近所からセキセイインコをいただいたり、木の上から落ちてきたヒヨドリの赤ちゃんをしばらく育てたり、30代後半から40代は、子どもたちの成長に動物たちも入り混じって、賑やかで華やかな一時代でした。
第7七年期~第8七年期 犬 猫 亀
ビンゴは8歳で亡くなり、取り残されたミミはとてもしょんぼりしていました。その頃、夫は入退院を繰り返し、私は付き添いで不在がち、末娘が一人で留守番をすることが増えました。一人では淋しいので、ミミは娘のナニー犬(?)としてめでたく室内犬に昇格。いざ間近で暮らしてみると、ミミの賢いことは驚くばかりでした。芸をするわけではないのですが、こちらの言うことがとてもよくわかるのです。興味深いのは、家族という群れの中で、ミミは下から2番目という位置取りでした。夫は入院中で不在、長女もイギリスにいて普段は家にいませんし、息子の関心はもっぱらゴジャラでしたから問題外、ミミにとって私はヘッド、末娘は面倒を見てやらねばならない存在、というわけで、私~ミミ~末娘という図式でした。
夫を見送り、実家の遠隔介護が始まると、いやがおうにも私は不在がちになりました。その頃には、ミミが大事にしていた(?)末娘もイギリスに行ってしまいましたし、息子も大学生になり、以前の私と同じ、自分のことで精いっぱいです。ゴジャラは相変わらず息子と寝ていましたけれど、ミミはどんどん老いていきました。母が逝く2か月前、ミミは末娘の帰国を待って、彼女の腕の中で息を引き取りました。
そしてそれから3年後、父が逝く5日前に、ゴジャラがこの世を去りました。私は伊勢におり、ゴジャラの最後の世話は息子がしました。不思議なほど、ペットと家族は強く結ばれていました。
疲れて帰宅すると、息をする動物がそばにいることの温かさは、何ものにも代えがたいものです。ですが、家族の不在は彼らにとっては甚だ辛いもののように思えて、それ以来、もう私のペットは終わり、と決めました。おわり