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山暮らしはじめました

 

 八ヶ岳南麓に住まいを移してから一か月が経ちました。と言っても、その間、半分は愛知に戻っていましたので、ちょうど半々、山暮らしは超初心者のままです。それでも不思議なことに、最初はあんなに冷え切っていた家が、息づいたように暖かくなり、ブスブスと煙っていた薪ストーブも今ではご機嫌に家を暖めてくれています。急場しのぎで作った鳥の餌箱は今も健在。夜明けを待ちかねて小鳥たちが代わる代わる訪れます。今年一番の雪の朝、まばゆいほどの銀世界となりました。心が洗われるというのはこういうことを言うのでしょう。

 

 薪ストーブの前で、揺らめく炎を見ながら柔らかな午後の日差しについ微睡んでしまう。目覚めたとき、自分があまりに幸福に満たされていて、急に罪悪感に襲われました。私、こんなに幸せでいいのかな。こんなに楽しくていいのかしら。今、世界中が抱えている問題から、自分がまるで乖離しているようで…。でもでも、すぐに思い直しました。これは今という瞬間、うれしいときに微笑むことのどこが罪なのか、と。

* * *

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 明石の鯛が食べたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 朝日の射す明るい
台所がほしいと

すりきれた靴は あっさりと捨て
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばし味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで 送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
思い込んでしまった村と町
家々のひさしは 上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背を伸ばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに 土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ 伊勢の海も見ていないと

女が欲しければ奪うのもいいのだ
男が欲しければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ
茨木のり子「もっと強く」第1詩集『対話』より
* * *
 時々自分に問いかけます。いったい人間というものは、幸福というものに指がかかると不意に不安になるのはなぜ?その指を自ら外したほうが安心だったりもします。決して安穏と至福を貪っているわけでもないのに、突然、浚われて失うのではないかという恐怖。それならば初めから期待しなければ、がっかりすることもないでしょう、と。
 でも本当にそうなのかしら。ほしい物はほしいと言って、その責任を引き受ければいい。
 自分はこの程度と、道半ばで手放したり、幸福を半分に留めておいたりする必要はないのです

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